【パワースポット】知念城<沖縄のグシク巡り! [歴史]
知念城跡編・・・
知念城跡(ちねんじょうあと)は知念按司の居城であると伝えられているようです。
知念集落の丘上にある、代々の知念按司(※あじ)の居城。自然石を野面積みした古城と、石造文化の粋を集めたアーチ式の新城に分かれる。城内には拝所や火の神の社殿などが残る。
(※領主・支配者のことです。)
かつては国王や聞得大君も参詣したと伝えられる古城で(東の郭)と新城(西の郭)に分かれており、新城の築城年代は三山時代であると考えられています。
東西に連なる二つの郭からなり、東側を古城、西側を新城と呼んでいるようです。
古城部分の城壁は自然石を高さ1.5m~2mの野面積みにして、新城部分は切石をあいかた積みにしたもので、二つのアーチ門がありました。
城の創建については不明ですが、古い時代のグシクとみられています。
知念城は、神話的存在である「天孫氏」によって築かれたという伝説が残る城のようですが、内間大親(うちまうふや)が築いていたとも言われています。
知念城跡内には1761年から1903年に至るまでの間、知念番所(間切の役所)が置かれていたようで現在の火の神(ヒヌカン)は番所が移動した後に地域の人々が祠をつくり祀ったものだそうです。
城内には、国王や聞得大君(きこえおおぎみ)が東御廻り(アガリウマーイ・東方の拝所巡礼)の時に参詣した拝所「友利御嶽(ともりウタキ)」や、瓦葺きの火の神(ヒヌカン)の社殿があります。
この御嶽や火の神には、地元だけでなく県内全域からの参拝客も多く訪れ、東御廻り(アガリウマーイ)の
拝所(※ウガンジュ)となっています。
(※拝みのこと)
知念按司(あじ)とは?
新城は、尚真王の時代(1477~1526)に、知念按司となった内間大親(うちまうふや)が築いたものであると言われています。
かつて、尚真王の父尚円が若い頃、尚徳王に仕えていたのだが、王の怒りに触れて、内間村に隠棲(静かに暮すこと)していたことがあったそうです。
その時に尚円が内間村の女と交わり 生まれた子供がいそうです。その子が知念村の古根大親という仁徳厚い人物の養子になったと言われています。
その養子になったのが内間大親であったということです。
つまり、内間大親は、尚真王の兄弟に当たる存在であったと言うことになります。
知念城の西南側の奥には、沖縄一番の霊場である久高島の遥拝所(※ようはいじょ)があり、かつては男子禁制だったとされています。
(※遠く離れた所から神仏などをはるかに拝むために設けられた場所)
そうしたこともあり、知念グスクは、城というよりも、拝所(ウガンジュ)としての性格が強かったのではないかとも言われている所です。
知念では現在史跡跡整備事業を進めているようで、それに伴う調査で18世紀を中心とした様々な資料が確認されているようです。
非常に静かな雰囲気の中にひっそりと佇む名城といった趣があり、中庭から久高島方面を望む景色は絶景でした。(^o^)丿
ひっそりとした森の中を城跡に向かう途中には、ノロの屋敷跡なども確認でき、琉球の国王や聞得大君(きこえおおぎみ)が「東御廻り(アガリウマーイ)」の時に参詣したとされる場所だけあって神聖な趣がありました。
城跡内には拝所「友利御嶽(ともりウタキ)」や、瓦葺きの火の神(ヒヌカン)の社殿もあり、神域としてのグスクでもあったようですね。
城址の近くには、琉球王が自から祭礼を行ったとされ、世界遺産にもなっている斎場御嶽(セーファウタキ)もあります。
斎場御嶽(セイファウタキ)はパワースポットでも有名どころですよ。(^o^)丿
観光で近くに来たら是非立ち寄ってみてはいかがですか?
それでは・・・(^o^)丿
知念城跡(ちねんじょうあと)は知念按司の居城であると伝えられているようです。
知念集落の丘上にある、代々の知念按司(※あじ)の居城。自然石を野面積みした古城と、石造文化の粋を集めたアーチ式の新城に分かれる。城内には拝所や火の神の社殿などが残る。
(※領主・支配者のことです。)
かつては国王や聞得大君も参詣したと伝えられる古城で(東の郭)と新城(西の郭)に分かれており、新城の築城年代は三山時代であると考えられています。
東西に連なる二つの郭からなり、東側を古城、西側を新城と呼んでいるようです。
古城部分の城壁は自然石を高さ1.5m~2mの野面積みにして、新城部分は切石をあいかた積みにしたもので、二つのアーチ門がありました。
城の創建については不明ですが、古い時代のグシクとみられています。
知念城は、神話的存在である「天孫氏」によって築かれたという伝説が残る城のようですが、内間大親(うちまうふや)が築いていたとも言われています。
知念城跡内には1761年から1903年に至るまでの間、知念番所(間切の役所)が置かれていたようで現在の火の神(ヒヌカン)は番所が移動した後に地域の人々が祠をつくり祀ったものだそうです。
城内には、国王や聞得大君(きこえおおぎみ)が東御廻り(アガリウマーイ・東方の拝所巡礼)の時に参詣した拝所「友利御嶽(ともりウタキ)」や、瓦葺きの火の神(ヒヌカン)の社殿があります。
この御嶽や火の神には、地元だけでなく県内全域からの参拝客も多く訪れ、東御廻り(アガリウマーイ)の
拝所(※ウガンジュ)となっています。
(※拝みのこと)
知念按司(あじ)とは?
新城は、尚真王の時代(1477~1526)に、知念按司となった内間大親(うちまうふや)が築いたものであると言われています。
かつて、尚真王の父尚円が若い頃、尚徳王に仕えていたのだが、王の怒りに触れて、内間村に隠棲(静かに暮すこと)していたことがあったそうです。
その時に尚円が内間村の女と交わり 生まれた子供がいそうです。その子が知念村の古根大親という仁徳厚い人物の養子になったと言われています。
その養子になったのが内間大親であったということです。
つまり、内間大親は、尚真王の兄弟に当たる存在であったと言うことになります。
知念城の西南側の奥には、沖縄一番の霊場である久高島の遥拝所(※ようはいじょ)があり、かつては男子禁制だったとされています。
(※遠く離れた所から神仏などをはるかに拝むために設けられた場所)
そうしたこともあり、知念グスクは、城というよりも、拝所(ウガンジュ)としての性格が強かったのではないかとも言われている所です。
知念では現在史跡跡整備事業を進めているようで、それに伴う調査で18世紀を中心とした様々な資料が確認されているようです。
非常に静かな雰囲気の中にひっそりと佇む名城といった趣があり、中庭から久高島方面を望む景色は絶景でした。(^o^)丿
ひっそりとした森の中を城跡に向かう途中には、ノロの屋敷跡なども確認でき、琉球の国王や聞得大君(きこえおおぎみ)が「東御廻り(アガリウマーイ)」の時に参詣したとされる場所だけあって神聖な趣がありました。
城跡内には拝所「友利御嶽(ともりウタキ)」や、瓦葺きの火の神(ヒヌカン)の社殿もあり、神域としてのグスクでもあったようですね。
城址の近くには、琉球王が自から祭礼を行ったとされ、世界遺産にもなっている斎場御嶽(セーファウタキ)もあります。
斎場御嶽(セイファウタキ)はパワースポットでも有名どころですよ。(^o^)丿
観光で近くに来たら是非立ち寄ってみてはいかがですか?
それでは・・・(^o^)丿
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