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【終戦の日】昭和20年8月15日までの出来事!知っておこう [歴史]

1945年8月15日正午、昭和天皇はラジオを通じ、日本の降伏を国民に伝えたことは皆さんご存知ですよね。

満州事変から日中戦争、太平洋戦争へと拡大した戦争は15年におよんだ。

政府によると、日本の戦没者は軍人【軍属230万人(民間人80万人)】アジア・欧米諸国にも多くの犠牲をもたらしました。

政府は63年~毎年8月15日に【全国戦没者追悼式】82年に、この日を【戦没者を追悼し平和を祈念する日】と定められました。
【終戦記念日(しゅうせんきねんび)】


●1945年(昭和20年)8月14日:日本政府が、ポツダム宣言の受諾を連合国各国に通告した日です。

●1945年(昭和20年)8月15日:玉音放送(ラジオ)「昭和天皇による終戦の詔書の朗読放送」により、日本の降伏が国民に公表された日です。

●1945年(昭和20年)9月2日:日本政府が、ポツダム宣言の履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印した日です。

●1952年(昭和27年)4月28日:日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)の発効により、国際法上、連合国各国(ソ連等共産主義諸国を除く)と日本の戦争状態が終結した日です。



1945年のこの日の、第二次世界大戦における連合国の日本に対する戦勝を記念とし、他の連合国各国では、日本が降伏文書に調印した9月2日を記念日としているようです。


1982年4月の閣議決定により「戦歿者を追悼し平和を祈念する日」となりました。

1963年から毎年、政府主催による「全国戦没者追悼式」が行われ、皆さんご存知だと思いますが、正午から1分間【黙祷】が捧げられるようになりました。



沖縄戦・・・

沖縄戦.JPG


1944年10月10日【沖縄戦の前哨戦】として10.10空襲がありました。

この空襲で旧那覇市街の90%が焼失したそうです。

米軍の上陸地点からこの首里城の司令部までの首里以北を中部戦線と呼び、司令部が首里陥落を目前に 南部に撤退したため、多くの住民が戦闘に巻き込まれてしまったそうです。

首里以南の戦いを南部戦線と呼ばれていて、ひめゆりの悲劇もこの南部地域で起きた。

ひめゆり学徒は何度も映画化され、有名なためこの南部地域こそが沖縄戦の主戦場であったと思われていることが多いのですが。


平和記念公園.JPG
平和記念公園

しかし南部戦線は米軍にとっては敗残兵狩りに等しい戦いであり、米軍の上陸地点から首里城までの中部地域こそが日米が死力を尽くして戦った沖縄戦の主戦場であると思われます。

米軍は上陸地点である北谷から首里城までの10キロを進むのに50日間もかかっているようで【沖縄守備軍】はこの間10万人の内7万4千人(主戦力のほぼ7割)の兵力を失っていると言われています。

日本兵の死者は1日あたり千人以上にものぼる、太平洋戦争でもっとも激しい戦いといわれるゆえんである事から、中部地域こそが沖縄戦の主戦場であったように思われます。


■沖縄戦の経緯

昭和16年(1941年) 

12月8日日本海軍、真珠湾への奇襲攻撃・太平洋戦争始まる。

昭和17年(1942年)

6月5日ミッドウェー海戦で日本海軍敗北。

昭和18年(1943年)

6月25日「学徒戦時動員体制確立要綱」決定。

昭和19年(1944年)

2月25日「決戦非常措置要綱」決定。

3月22日南西諸島に第32軍創設する。

7月7日南西諸島の老幼婦女子・学童の集団疎開閣議決定する。

8月22日対馬丸、悪石島付近で撃沈される。

10月10日沖縄大空襲。

10月29日第1次防衛召集(17歳から45歳までの健全な男子を防衛隊として召集)主に飛行場建設に従事。

昭和20年(1945年)

1月20日第2次防衛召集。(17歳から45歳までのほとんどの男子を召集)

3月1日沖縄県立第2中学校生徒の一部、部隊へ入隊する。

3月6日国民勤労動員令公布・沖縄県の15歳から45歳までの男女を「根こそぎ」動員する。

3月17日硫黄島の日本軍守備隊、玉砕する。

3月20日大本営「当面の作戦計画大綱」発令、沖縄作戦に重点を置くことを決定。

3月23日米軍が沖縄諸島に空襲を開始する。

3月26日米軍、慶良間列島に上陸する!地上戦が始まる。

4月1日米軍が沖縄島西海岸の読谷・嘉手納・北谷に上陸する・米国海軍軍政府布告第1号(ニミッツ布告)沖縄本島読谷に米国海軍軍政府を設立。

4月7日南西諸島防衛のため沖縄に向けて出撃した戦艦「大和」が九州南方において撃沈される。

4月16日米軍が伊江島に上陸する。

5月31日米軍が首里を占領する。

6月13日日本軍の海軍部隊が壊滅する。

6月18日米軍司令官バックナー中将が糸満市真栄里で戦死する。

6月19日沖縄における日本軍の組織的抵抗がほぼ終わる。

6月22日「戦時緊急措置法」公布(6/23施行) 戦時緊急措置法。

6月23日牛島第32軍司令官が糸満市摩文仁で自決する。

7月2日米軍が沖縄作戦の終了を宣言する。

7月26日連合軍が対日ポツダム宣言を発表する。

8月6日広島に原爆が投下される。

8月8日ソ連が日ソ中立条約を破棄する。(9日侵攻開始)

8月9日長崎に原爆が投下される。

8月14日ポツダム宣言の無条件受諾を決定する。

8月15日昭和天皇による玉音放送。【終戦記念日(しゅうせんきねんび)】

9月2日日本政府が東京湾のミズリー号で降伏文書に調印する。

9月7日南西諸島の日本軍が降伏文書に調印する。

昭和21年(1946年)

1月29日沖縄・宮古・八重山・奄美の行政権が日本から分離される。

8月17日本土から第一回引き揚げ船が入港する。

昭和27年(1952年)

4月28日サンフランシスコ講和条約発効により沖縄が米国施政権下に入る。

昭和47年(1972年)

5月15日沖縄の復帰。



復帰後・・・


米軍は沖縄を自由にベトナム・中東など各地の戦役の拠点として引き続き使用し、住民の猛烈な抵抗が続いていました。

日本政府側は「本土並み」の復帰を目指したが、実際には30以上の米軍基地や弾薬庫・演習場等が残され、その面積は全県の12%にも上っていて、未だこのような状況は続いています。

当時、本土復帰後もアメリカが、ここ沖縄に基地を維持することを認めるという、口約束の上で初めて復帰交渉が成功したのであったことが、長い年月を経た今明らかになっています。



広島原爆投下・・・


昭和20年(1945年)8月6日(月曜日)の朝は快晴で、真夏の太陽がのぼると、気温はぐんぐん上昇していたようです。

深夜0時25分に出された空襲警報が午前2時10分に解除されたが「午前7時9分」警戒警報のサイレンでたたき起こされたようで、この時はアメリカ軍機1機が高々度を通過していっただけだったため、警報は午前7時31分に解除!

一息ついた人々は、防空壕や避難場所から帰宅して遅い朝食をとったり、仕事に出かけたりと、それぞれの1日を始めようとしていたそうです。


昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分頃

広島投下:原子爆弾名 リトルボーイ

【人類史上最初】の原子爆弾が、広島に投下されました。


広島ドーム.JPG
広島 原爆ドーム


広島ドーム 1.JPG
現在


原子爆弾は、投下から43秒後、地上約600メートルの上空で、目もくらむ閃光を放って炸裂し、火球の中心温度は摂氏100万度を超えた!

1秒後には最大直径280メートルの大きさとなり、爆心地周辺の地表面の温度は3000~4000度にも達したようです。想像がつきません(>_<)

爆発の瞬間、強烈な熱線と放射線が四方へ放射されるとともに、周囲の空気が膨張して超高圧の爆風となり、これら3つが複雑に作用して大きな被害をもたらしたと言われているようです。

原爆による被害の特質は、大量破壊、大量殺りくが瞬時に、かつ無差別に引き起こされたこと、放射線による障害がその後も長期間にわたり人々を苦しめたことにあります。



長崎原爆投下・・・


1945年(昭和20年)8月9日(月曜日)も長崎は真夏の暑い日が続いていたそうです。

原子爆弾を搭載したB29はテニアン島を日本時間午前2時47分頃、観測機・撮影機の2機を従えて離陸し、第一目標の福岡県小倉市(現・北九州市)に向かっていたようです。

投下予定時刻の小倉上空は目視投下可能な晴れの天候であったが、屋久島上空で合流予定の撮影機1機とは合流できず、2機で小倉陸軍造兵廠上空に到着した時は、前日の八幡空襲の焼煙が翌朝まで残り、西に流れていたために投下目標が目視できないほど覆い隠していた。

数回にわったて侵入を試みたが失敗する、結局、日本軍の迎撃戦闘機の接近もあり小倉への投下を断念。

また、残った燃料の量を考え、やむなく第2の目標「長崎市」へと機首を向けたそうだ。

長崎上空に侵入するが、本来の投下目標の照準点であった中島川に架かる常盤橋から賑橋付近(商業地区)も雲で視界がきかない、それに、燃料も少なくなっていた。

目視投下の命令どおりなら爆撃を中止して、海に原爆を投棄して帰還しなければならないはずだったようだ、 しかし【B29爆撃機ボックスカー】は、命令に反してレーダー照準で午前11時2分頃、原爆を投下した。

原爆は当初の投下目標より、北北西3.4キロの松山町で炸裂した。

高度約9600m上空から投下された原子爆弾は、上空約500mで炸裂、一瞬、閃光が全てを覆いかくしました。

熱線と放射線と強大な爆風はあらゆるものを一瞬にして破壊して焼き尽くしてしまいました。

(長崎同様、熱線は爆心地表面温度で3000~4000度!)

長崎投下:原子爆弾名 ファットマン


長崎.JPG
長崎 平和祈念像

先の戦争では、沖縄戦や各都市での空爆、広島・長崎への原爆投下など、痛ましい被害をもたらされましたね。

戦争や被爆を体験した世代は年々少なくなり、今では戦争を知らない世代が大半を占めています。

戦争の悲惨さ、核兵器の恐ろしさに対する意識は風化しつつありますが、しかし、私たちは、決して過去を忘れてはいけないと思います。

8月15日は【終戦記念日(しゅうせんきねんび)】ですね。

私は戦争体験者ではありませんが、戦時中の話を聞くと心が張り裂けそうになります。

戦争はあってはいけなし!やってもいけない!と思います。(=^・^=)


長々、お読みいただきありがとうございます。m(__)m




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