SSブログ

【命のビザ!】 6000千人もの命を救った! 日本人とは? [歴史]

杉原千畝(すぎはらちうね)

「東洋のシンドラー」とも呼ばれる外交官です。

彼は、第二次世界大戦中、日本領事館領事代理として赴任していたリトアニアのカウナスという都市で、ナチス・ドイツによって迫害されていた多くのユダヤ人にビザを発給し、彼らの亡命を手助けしたことで知られています。

みなさん・・・「命のビザ」という言葉を聞いたことありませんか?

ユダヤ人にビザを発給し、彼らの亡命を手助けしたことこそ、ユダヤ人にとって「命のビザ」だったそうです。



杉原がリトアニアの在カウナス日本領事館領事代理に任命されたのは、昭和14年(1939年)でした。

当時の在カウナス日本領事館で彼が多くのユダヤ人を救い、「東洋のシンドラー」と呼ばれることになったドラマの舞台がこの場所です。

ところで、「東洋のシンドラー」の「シンドラー」とは何のことか、ご存知でしょうか?

これもまた人の名前で、オスカー・シンドラーというドイツ人(生まれは現在のチェコ)の実業家で、やはり第二次世界大戦末期に、多くのユダヤ人の命を救ったことで知られる人物だそうです。

彼は、ドイツ占領下のポーランドで自らが経営していた軍需工場(戦争のために必要な物資を製造する工場)に労働者としてユダヤ人を雇い入れ、その身柄を保護することで1200人に上ると言われるユダヤ人の命を救ったといわれています。

彼がユダヤ人労働者の保護を申請するために作成したリストは「シンドラーのリスト」と呼ばれています。

これをタイトルにした映画は大きな反響を呼び、シンドラーという人物はさらに多くの人の知るところとなりました。

こうしたシンドラーの行いになぞらえて、のちに杉原千畝は「東洋のシンドラー」と呼ばれるようになったそうです。

昭和15年(1940年)7月16日には、杉原によるユダヤ人へのビザ発給は既に行われていましたが、これは決して順調に進められたわけではありませんでした。

7月28日に杉原より本国の外務省に宛てて出された電報で、その末尾には日本通過ビザの発給を求めて連日100名ほどのユダヤ人が領事館に詰め掛けていると書かれていたそうです。

しかし実は、このようにビザ発給を求めて領事館にやって来るユダヤ人の多くは、規則に従えばビザの発給が認められない人々でした。

この規則というのは、昭和13年(1938年)10月7日に外務大臣から各地の在外公館に宛てて発せられたもので、日本通過ビザの発給が認められるユダヤ人の資格として、「避難先の国の入国許可を得ていること」や「避難先の国までの旅費を持っていること」などが定められていました。

杉原に対して、資格を持たないユダヤ人へのビザ発給の許可を出すことは最後までありませんでした。

それでも杉原は、独自の判断で発給を続けたようです。

こうして発給された日本通過ビザによって日本に渡ったユダヤ人の中には、避難先の国の入国許可を得ていないために、結果として日本で足止めとならざるを得ない人々も多かったと言われています。

しかし、命の危険が迫るヨーロッパから脱出させることができたことは、まさに彼らの命を救ったことにほかなりません。

杉原は日本人もいない、しかも日本とも一切かかわりのないこのリトアニアで、ドイツとソ連の情報収集するスパイ任務をさせられていたようです。

しかしその後、そのリトアニアがソ連のものとなり、ソ連から日本領事は出て行くよう要求されました。

ソ連への併合にともない、杉原のいたリトアニアでは各国の在外公館が相次いで閉鎖されていきました。

杉原もこの地を離れなければなりませんでしたが、それでも杉原は最後までビザの発給を続けたと言われています。

6000千人ものユダヤ人の命を救ったとして、今でも語り継がれているようですよ。

それが【命のビザ】の由来のようです。(^o^)丿


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント

トラックバック 0

トラックバックの受付は締め切りました

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。