SSブログ

世界遺産! 沖縄のグシク巡り! 中城城編・・・ [歴史]

琉球王国時代の記憶を、今に伝える中城城跡

自然の岩石や地形を巧みに利用した美しい曲線の城壁、当時の巧みな石積技術を目の前で見る事ができます。

「琉球王国のグシク及び関連遺産群」の一つとして、世界遺産に登録されましたと書かれていました。


琉球王国にはおよそ300余りの城(グシクが)あったといわれているようで、中城城跡は去る大戦の戦禍による被害は最小限で県内のグシクの中でも最も原型を留めている、歴史的に極めて高い価値があると言われています。

中城城の築城年代は不明みたいですが、14世紀後半に先中城按司が数世代に渡って築き、1440年頃に座喜味城主「読谷山按司:護佐丸」が王府の命令により移ってきて、1458年に自刃するまでの間に、北の郭、三の郭を当時の最高の築城技術で増築したと伝えられているようです。


護佐丸(ごさまる)とは?


護佐丸は、15世紀の琉球王国の按司。

恩納村出身で大和名は中城按司 護佐丸 盛春、唐名は毛国鼎。

第一尚氏王統建国の功臣で、尚氏6代の王に仕えながら晩年に謀反を疑われて自害し、忠節(尽くす事)を全うしたと伝えられるようです。

護佐丸滅亡後は、世子(王子)の居城となり、さらにその後は間切番所、中城村役場が置かれ、1945年(昭和20年)3月頃に戦争により焼失するまで中城村の行政の中心となっていようです。

中城城が、いつ誰によって建てられたのか確かなことはまだわかっていないようで、もともとは当時の豪族「先中城按司」の居城だったと伝えられていますが、城主として有名なのは護佐丸という人物です。

護佐丸は山田城(恩納村)で生まれ、山田按司を継ぎ、第一尚氏王統時代の英雄として知られる尚巴志とともに、三山統一を成し遂げました。按司(あじ)とは領主・支配者のことです。

その功績が認められ、読谷山の地を与えられた彼は座喜味に城を築いて移り、読谷山按司として尚巴志王の琉球統一事業に尽力しましたと伝えられています。

しかし、その頃勢力を伸ばしてきた勝連城主の阿麻和利(あまわり)を牽制するため、王の命によりほどなく中城城に移され中城按司となります。

そして1458年、第一尚氏王統第6代王・尚泰久の時に阿麻和利に滅ぼされたと伝えられています。

伝承では、天下を狙う阿麻和利が、首里と勝連の間に立ちふさがる中城按司・護佐丸を除くため、護佐丸が謀反を企んでいると尚泰久王に讒言(ざんげん)をし、王はこの報告を信じて、阿麻和利に護佐丸討伐を命じました。

護佐丸は首里王府軍の旗を掲げて攻めてきた阿麻和利軍を見て謀りごとと見抜きつつも、王への忠誠心から「王府軍には逆らえぬ」と、幼児だった三男を乳母に託して落ちのびさせ、妻子もろとも自害します。

その後、阿麻和利も讒言(うそ)がばれて王府軍によって滅ぼされたと伝えられています。

この出来事は「護佐丸・阿麻和利の乱」と呼ばれ、沖縄独特の芸能である「組踊」などの題材にもなっています。

もっとも、「忠臣・護佐丸、逆賊・阿麻和利」という構図は首里王府に基づく見方で、阿麻和利(あまわり)こそ農民たちの英雄だったとする説もあり、琉球史最大の謎に包まれた事件のようです。


石積みについて


石垣・加工.png

グスクの石積みには大きく分けて【野面積み、布積み、相方積み】があるようで中城城跡では、この3種類の石積みを一度に見る事ができました。

野面積みとは、加工していない石の事を言うようで、その名の通り自然の岩や石をそのまま組み合わせる、最も古い技法だそうです。

布積みとは、直方体に加工した石を、一段ごとに高さを揃えてブロック状に積み上げるて作る技法で、主に門の周辺にこの技法が用いられており、大きな石を積む事で強固に仕上がっている。

相方積みは、石を多角形に加工し、互いに噛み合うように積む技法。強度と耐久性に富む。護佐丸の時代に築いたとされる裏門に面した三の郭と北の郭にありました。


世界遺産「中城城跡」について

中城城跡は、中城村と北中城村にまたがり東北から南西にほぼ一直線に伸びた標高150m~170mの石灰岩丘陵上の縁辺部に立地する山城です。

南東側は15m以上の切り立った断崖、北西側は勾配のきつい傾斜面となっているため城内に至るには正門や裏門に面している南北の丘陵尾根沿いしかなく、守りやすく攻めにくい地に築かれているそうです。

城は6つの郭からなり、城壁は琉球石灰岩で積まれ、自然の岩石と地形的条件を巧みに生かしながら美しい曲線で構成されていました。何百年前の技術は・・・すごい


景色は・・・


景色①.jpg


また、グスクからの眺望は風光明媚で、東側に中城湾や太平洋、西側に宜野湾市や東シナ海、北側に勝連半島や読谷方面、南側に与那原や知念半島を見渡すことができる景勝地となっていました。

琉球王国とは、今から約586年前に成立し、約450年に渡り日本の南西諸島に存在した王制の国のことです。

明治維新により成立した日本政府が1879年(明治12年)に国王を追放し、沖縄県の設置(※廃藩置県)が宣言され琉球王国は滅亡しました。
※(はいはんちけん)明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。

また、グシクとは、主に12~16世紀に農村集落を基盤として群雄割拠した「按司(あじ)」と呼ばれる領主的豪族層が、自らの居住と防衛の拠点として築いた城のことだそうです。

色々な事が起こり今現在があるのですね、改めて歴史のすごさに感心します。

歴史上で一つでも変われば今現在の沖縄は違ったふうになっていた!かと思えば不思議な感じがしますね(^o^)丿

沖縄に来たら一度は観光してみてはいかがでしょうか?希望したら無料でガイドさんが案内してくれましたよ!



それでは・・・








【パワースポット】知念城<沖縄のグシク巡り! [歴史]

知念城跡編・・・

知念城跡(ちねんじょうあと)は知念按司の居城であると伝えられているようです。

知念集落の丘上にある、代々の知念按司(※あじ)の居城。自然石を野面積みした古城と、石造文化の粋を集めたアーチ式の新城に分かれる。城内には拝所や火の神の社殿などが残る。
※領主・支配者のことです。

かつては国王や聞得大君も参詣したと伝えられる古城で(東の郭)と新城(西の郭)に分かれており、新城の築城年代は三山時代であると考えられています。

東西に連なる二つの郭からなり、東側を古城、西側を新城と呼んでいるようです。

古城部分の城壁は自然石を高さ1.5m~2mの野面積みにして、新城部分は切石をあいかた積みにしたもので、二つのアーチ門がありました。  


知念城跡①.png


城の創建については不明ですが、古い時代のグシクとみられています。


知念城は、神話的存在である「天孫氏」によって築かれたという伝説が残る城のようですが、内間大親(うちまうふや)が築いていたとも言われています。


知念城跡内には1761年から1903年に至るまでの間、知念番所(間切の役所)が置かれていたようで現在の火の神(ヒヌカン)は番所が移動した後に地域の人々が祠をつくり祀ったものだそうです。


城内には、国王や聞得大君(きこえおおぎみ)が東御廻り(アガリウマーイ・東方の拝所巡礼)の時に参詣した拝所「友利御嶽(ともりウタキ)」や、瓦葺きの火の神(ヒヌカン)の社殿があります。


この御嶽や火の神には、地元だけでなく県内全域からの参拝客も多く訪れ、東御廻り(アガリウマーイ)の
拝所(※ウガンジュ)となっています。
※拝みのこと


知念按司(あじ)とは?


新城は、尚真王の時代(1477~1526)に、知念按司となった内間大親(うちまうふや)が築いたものであると言われています。
 
かつて、尚真王の父尚円が若い頃、尚徳王に仕えていたのだが、王の怒りに触れて、内間村に隠棲(静かに暮すこと)していたことがあったそうです。

その時に尚円が内間村の女と交わり 生まれた子供がいそうです。その子が知念村の古根大親という仁徳厚い人物の養子になったと言われています。


その養子になったのが内間大親であったということです。

つまり、内間大親は、尚真王の兄弟に当たる存在であったと言うことになります。

知念城の西南側の奥には、沖縄一番の霊場である久高島の遥拝所(※ようはいじょ)があり、かつては男子禁制だったとされています。
※遠く離れた所から神仏などをはるかに拝むために設けられた場所

そうしたこともあり、知念グスクは、城というよりも、拝所(ウガンジュ)としての性格が強かったのではないかとも言われている所です。

知念では現在史跡跡整備事業を進めているようで、それに伴う調査で18世紀を中心とした様々な資料が確認されているようです。

非常に静かな雰囲気の中にひっそりと佇む名城といった趣があり、中庭から久高島方面を望む景色は絶景でした。(^o^)丿

ひっそりとした森の中を城跡に向かう途中には、ノロの屋敷跡なども確認でき、琉球の国王や聞得大君(きこえおおぎみ)が「東御廻り(アガリウマーイ)」の時に参詣したとされる場所だけあって神聖な趣がありました。

城跡内には拝所「友利御嶽(ともりウタキ)」や、瓦葺きの火の神(ヒヌカン)の社殿もあり、神域としてのグスクでもあったようですね。

城址の近くには、琉球王が自から祭礼を行ったとされ、世界遺産にもなっている斎場御嶽(セーファウタキ)もあります。

斎場御嶽(セイファウタキ)は[ひらめき]パワースポットでも有名どころですよ。(^o^)丿


観光で近くに来たら是非立ち寄ってみてはいかがですか?


それでは・・・(^o^)丿






沖縄のグシク巡り !佐敷城編・・・ [歴史]

佐敷城跡・・・


佐敷城は、佐敷の海岸部を臨む南側の山稜の中腹部であり、海岸部からの比高は40mほどだそうです。

この城(グシク)は尚巴志(しょうはし)の最初の居城だったと言われるている城(グシク)です。

尚巴志1.jpg


第一尚氏の尚思紹(しょうししょう)・尚巴志(しょうはし)の居城だが、石垣には囲まれていなかったのではないかと!
言われています。

その下に展望台となっている広場があるが、ここは結構広く建物を何棟も建てることができる広さで ここからは佐敷の海岸や集落を一望の下に望むことができきるようでした。

尚巴志(しょうはし)は馬天港や与那原港で明との貿易を盛んに行い、購入した鉄から作った農具を配ることで民心を得たとされています。

1979年の発掘調査では、中国製の青磁碗が一括して出土しているようです。そのほか鉄・青銅製品、皇宋通宝、荊寧元宝などの銭や、玉類、炭化した米、麦、牛骨なども出土したそうです。

また、建物跡の柱穴や土留めなども検出されており、尚氏の居館の跡も推定されているが、上記の通り 沖縄の城(グシク)に見られる石垣などは存在していないようです。

城(グシク)の背後は南側から延びてきている山稜が続いてきており、山の側から攻め込まれたら苦戦しそうな地形であると言われています。

尚巴志(しょうはし)の城(グシク)であったにしては、意外にぱっとしない城(グシク)である!ですが!ここから三山統一が始まったのか!うぅ[exclamation]すごい!トリハダものですね[グッド(上向き矢印)](^o^)丿

三山統一の過程で、大里グスクを攻め取り、佐敷グスクより居を移し 1406年には浦添城の中山王・武寧を滅ぼして父・尚思紹(しょうししょう)を中山王に就け、1416年には今帰仁城の攀安知(はんあんち)を攻め落とし、1429年には南山城の他魯毎(たるみい)を攻め滅ぼして琉球初の統一王朝を打ち立てたそうです。

この王朝は第一尚氏王統と呼ばれ、1469年まで6代続いた。佐敷城は三方を急斜面で囲まれた丘陵に築かれ、中城湾から勝連城まで見渡せる眺望の良い位置にある。

琉球を統一した初代王出身の城ではあるが、現在は1938年に第一尚氏を祀るために建立された月代宮(つきしろのみや)があるだけのようです。

月代宮.JPG

ここは、琉球王朝時代から聖地とされ、首里城から沖縄本島の東南部の聖地14ヵ所を巡る行事「東御廻り」(アガリウマーイ)の一か所とされているようです。

東御廻り」(アガリウマーイ)は、かって国王の行事だったものが、次第に一般の人々の行事になっているようですよ。

聖地は鳥居を山手に入った眺めのいい位置にあり、遠く久高島も拝めるようです。

久高島は神の島で有名ですよ!


月代宮とは?


KIMG0366.JPG


尚巴志の500年祭を機に、佐銘川大主・尚思招・尚巴志・尚忠・尚思達・尚金福・尚泰久・尚徳の8体を合祀したつきしろの宮が建立された。

命名は、第一尚氏王統の守護神「つきしろ」に由来。台地上の先端部に築かれていることから、別名「上グシク」とも呼ばれているそうです。


ふと目を閉じると琉球國時代の風景が浮かんでくるようでした。

知っとこ!
[ひらめき]佐敷城ってたしか、熊本にもありましたよね。



それでは・・・









この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。