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沖縄のグシク巡り!大里城跡編・・・ [歴史]

島添大里グシク

島添大里城(しましいおおざとじょう)は1429年に南山王国が滅亡するまで首府が置かれていたとされる場所だそうです。

承察度(しょうさっと、うふさと)が浦添城において玉城を打ち破った1314年に南山王国の首府が置かれ、城郭は漁港である糸満および農村である大里近くの丘の上にあったようです。
南山王国の初代国王

その丘の麓には小さな登り口があり、許可された商船と直取引を行っていたそうです。

島添大里城の戦略的な立地条件により、南山王国は北山王国や中山王国と繁栄を競ったとされています。

しかし1429年、他魯毎(たるみい)の治政(家督を継ぐこと)に中山の尚巴志により滅ぼされたとされています。
4代目王で南山王国最後の王

大里城跡は、標高約150メートルの琉球石灰岩の丘陵台地に形成されています。

北側から西側にかけて急峻な崖状をなし、崖を背に堅固な城壁と天然の地形を巧みに利用した城(グシク)です。

城の規模は東西に長く延び、北側の最奥部の本丸跡を取り巻く形で南側、東側に広く連敦式の城壁が連なり、石積みは野面積みが大半だそうです。

城内には一の郭を囲む城壁のほか、数箇所に城壁が残っており、さらに発掘調査によって、採石を免れた城壁の基礎部分が地中より確認されているようです。

中国産陶磁器や金属製品(鉄器・青銅製品)装飾品などが出土したようです。

城に近接して物見台(ものみだい)と考えられるギリムイグスクも所在する。

三山時代の島添大里按司(あじ)の拠点として、また尚巴志(しょうはし)による琉球統一の拠点となったとされる歴史的な城跡として貴重である。

過去の調査によって建物の柱を支えるための基石が数箇所から確認され、島添按司の住居である正殿規模は約22m×13mもあり、幾度も改築が行われたと考えられています。

1950年代には城趾に小学校が建設されていたようで、2012年1月には国の指定史跡となったそうです。






沖縄グシク巡り!玉城城跡編・・・ [歴史]

アマミキヨが築いたといわれる琉球最古の古城・玉城城(タマグスク・グシク)


玉城城跡(たまぐすくじょうあと)は、別名アマツヅ城とも言われているようです。


玉城按司とは?

玉城世之主玉城按司(たまぐすくよのぬしたまぐすくあじ)によって石積みを行って殿舎を建てたと言われていて、後の英祖王統 四代目王 玉城王だと言われています。

尚コウ王の次男・尚惇、大里王子朝教を元祖とする琉球王族と言われていて第二尚氏の分家で、王国末期に大里間切(現;南城市大里地区)の按司地頭を務めた琉球王国の大名です。
琉球王国第二尚氏王朝の第17代国王

築城年代や歴代の城主についてはさだかではないのですが、石垣の積み方から約600年前のものと推定されているようです。

島尻郡誌では、【アマミキヨ】が築いた城であるとの伝説があって城主は、一の郭・二の郭・三の郭の三つの郭からなる階段状の山城で天然の要害の地に築かれています。
(琉球民族の祖霊神と言われている)

城壁は一の郭が原型をとどめていて、二の郭と三の郭の城壁は戦後、米軍基地建設の骨材料として持ち去られ、現在根石がかろうじて残っているにすぎないようです。(残念です)(>_<)

一の郭は、東北東に自然の一枚岩を刳り抜いて造られた城門があり現在残っているのは主郭跡の城壁、石敷などの遺構のみで、主郭の城壁はほぼ完全に近い形で残っています、岩盤をくり抜いて作られた本丸門は(東北東)に向けて口を開いており、ニライカナイ(琉球で伝承される海のはるか彼方の理想郷)に通じるとされている。

琉球創世神・アマミキヨが築いた琉球七御嶽のひとつとされていますが、城跡内に七御嶽の【アガル御イベ、ツレル御イベ】と呼ばれる拝所が残されています。

琉球国王も参拝したといわれる 天つぎあまつぎの御嶽があり、とくに干ばつの際は国王自ら雨乞いの儀式を行ったと記されているようです。

現在でも東御廻り(アガリウマーイ)という巡礼行事の聖地となっていつようで、昭和62年[1987年]には 国から史跡に指定されたそうです。

玉城城は神秘的なグスクのようでした。(^_^.)







【命のビザ!】 6000千人もの命を救った! 日本人とは? [歴史]

杉原千畝(すぎはらちうね)

「東洋のシンドラー」とも呼ばれる外交官です。

彼は、第二次世界大戦中、日本領事館領事代理として赴任していたリトアニアのカウナスという都市で、ナチス・ドイツによって迫害されていた多くのユダヤ人にビザを発給し、彼らの亡命を手助けしたことで知られています。

みなさん・・・「命のビザ」という言葉を聞いたことありませんか?

ユダヤ人にビザを発給し、彼らの亡命を手助けしたことこそ、ユダヤ人にとって「命のビザ」だったそうです。



杉原がリトアニアの在カウナス日本領事館領事代理に任命されたのは、昭和14年(1939年)でした。

当時の在カウナス日本領事館で彼が多くのユダヤ人を救い、「東洋のシンドラー」と呼ばれることになったドラマの舞台がこの場所です。

ところで、「東洋のシンドラー」の「シンドラー」とは何のことか、ご存知でしょうか?

これもまた人の名前で、オスカー・シンドラーというドイツ人(生まれは現在のチェコ)の実業家で、やはり第二次世界大戦末期に、多くのユダヤ人の命を救ったことで知られる人物だそうです。

彼は、ドイツ占領下のポーランドで自らが経営していた軍需工場(戦争のために必要な物資を製造する工場)に労働者としてユダヤ人を雇い入れ、その身柄を保護することで1200人に上ると言われるユダヤ人の命を救ったといわれています。

彼がユダヤ人労働者の保護を申請するために作成したリストは「シンドラーのリスト」と呼ばれています。

これをタイトルにした映画は大きな反響を呼び、シンドラーという人物はさらに多くの人の知るところとなりました。

こうしたシンドラーの行いになぞらえて、のちに杉原千畝は「東洋のシンドラー」と呼ばれるようになったそうです。

昭和15年(1940年)7月16日には、杉原によるユダヤ人へのビザ発給は既に行われていましたが、これは決して順調に進められたわけではありませんでした。

7月28日に杉原より本国の外務省に宛てて出された電報で、その末尾には日本通過ビザの発給を求めて連日100名ほどのユダヤ人が領事館に詰め掛けていると書かれていたそうです。

しかし実は、このようにビザ発給を求めて領事館にやって来るユダヤ人の多くは、規則に従えばビザの発給が認められない人々でした。

この規則というのは、昭和13年(1938年)10月7日に外務大臣から各地の在外公館に宛てて発せられたもので、日本通過ビザの発給が認められるユダヤ人の資格として、「避難先の国の入国許可を得ていること」や「避難先の国までの旅費を持っていること」などが定められていました。

杉原に対して、資格を持たないユダヤ人へのビザ発給の許可を出すことは最後までありませんでした。

それでも杉原は、独自の判断で発給を続けたようです。

こうして発給された日本通過ビザによって日本に渡ったユダヤ人の中には、避難先の国の入国許可を得ていないために、結果として日本で足止めとならざるを得ない人々も多かったと言われています。

しかし、命の危険が迫るヨーロッパから脱出させることができたことは、まさに彼らの命を救ったことにほかなりません。

杉原は日本人もいない、しかも日本とも一切かかわりのないこのリトアニアで、ドイツとソ連の情報収集するスパイ任務をさせられていたようです。

しかしその後、そのリトアニアがソ連のものとなり、ソ連から日本領事は出て行くよう要求されました。

ソ連への併合にともない、杉原のいたリトアニアでは各国の在外公館が相次いで閉鎖されていきました。

杉原もこの地を離れなければなりませんでしたが、それでも杉原は最後までビザの発給を続けたと言われています。

6000千人ものユダヤ人の命を救ったとして、今でも語り継がれているようですよ。

それが【命のビザ】の由来のようです。(^o^)丿


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